当たり前と言うから思考停止になる

仕事の現場で良く耳にする言葉に「当たり前」がある。

  • この位の障害件数が発生するのは当たり前だ。
  • その程度の工夫が出来るのは開発者として当たり前だ。
  • この程度の生産性を確保出来るのは当たり前だ。

便利な言葉なのでついつい自分も使っていたりするわけだが、そんな慣用句を口癖のように使っていると、いつの間にか思考停止状態に陥ってしまう気がしている。当たり前という、慣れ親しんだ言葉でカテゴライズすることに安心してしまい、それ以上に考えることを止めてしまう訳だ。たくさんの障害件数に恐れをなしている時に、「その程度の件数なら当たり前」という評価を聞いて、まだ大丈夫だと安心したという話を聞いたことがあるけど、それでは本末転倒だろう。

当事者が当たり前と思い込んでいるのは、個人の経験や知識、思い込みに基づくものであって決して普遍的な事実ではないはずだ。知識量の差によって当たり前の尺度に違いがあるのは当然のことだし、他人の常識を押し付けられるのも迷惑な話だったりする。当たり前という言葉を連呼する人には、個人的な偏見を押し付けるのは止めてくれと嫌味の一つも言いたくなってしまう。

また、主観的な言葉を客観的な言葉に置き換えて、「過去のプロジェクトでの平均障害件数と同程度」と言えば押し付けがましさは取り除かれるものの、その背後に潜む意図が読めなくなってしまうので、「同程度だから安心して良い」のか「同程度なのだから何とか改善しろ」なのかますます分からなくなってしまう。

思うに、当たり前という文言が通用するのは、当事者間で同じ意識を共有している場合に限られるのではないかと思う。同じ開発チーム内で日常的に同じ問題に対処しているのなら、当たり前という感覚は理解しやすいし誤解を招く恐れも少ない。ところが、開発担当者と管理者間になると、共有している問題意識に差があるから、当たり前という言葉に違和感を覚えることが少なくないし、かえって逆効果を招く可能性もあり得る。

そんな訳で「当たり前」という言葉を耳にした時には、その感覚に共鳴できるか否かで、その人との距離を感じ取ることが出来るような気がしている。自分も同じように当たり前と思えるのなら距離は近いはずだし、とても当たり前とは思えないのなら、それはかなりの距離で隔てられていることを意味するはずだ。え?当たり前という言葉を使わないのが当たり前だって?それはなかなか賢い選択かも知れない;-p