褒める文化という難しさ

ソフトウェア開発の現場に関わっていると、日々問題のオンパレードなので、その対応に追われてしまい、ややもすると喧嘩腰の口調でやり合うことが珍しくない。誰も好きで問題を作っているわけではないのだから怒ったところで何も問題は解決しないし、周囲の雰囲気が悪くなるだけなのだから大人げない発言は止めたらどうかと思うのだが、なぜか当人はそんな叱責こそが自分の仕事と思い込んでいるフシがある。こんなリーダの元で働く開発者も大変だし、実際のところ、その人の為に頑張ろうと思っている人はあまり多くないようだ。リーダという存在は、実は裸の王様のようなものかも知れない。

他から移って来たある人は、そんな有り様を見かねてこんな発言をしていた。

ここには人を褒める文化というものが無い。問題が有るのは分かるが、他に良いところだって幾らでも有るのだから、それを褒めた上で問題に対処するというやり方が必要ではないのか?問題ばかり指摘されて気持ちよく仕事出来るのか?

もっともな話だと思う。どうして人を褒めて前向きの姿勢を生みだすというプラス志向の考え方が無いのだろうか。仮に、良いところが少なくて問題ばかりが多いにしても、問題点ばかりを指摘されてやる気が出てくるなんて言う人はあまりいないだろう。山本五十六ではないけれど、人を動かそうと思ったらまずは褒めるということから始めるべきではないのだろうか?

しかしながら、そんな賞賛を良しとする文化へ組織を変えていくことは難しい。問題を問う方も問われる方も非難が当然という文化にどっぷりとはまっていたのだ。それが当たり前という世界で仕事をしてきたのだから、ある日突然「人を褒めましょう」と言われたところでいきなり実践出来るわけがない。昨日まで怒鳴り散らしていたリーダが、いきなり人を褒めることなんて出来ないし、褒めてみても周囲は何か良からぬ前兆ではないかと警戒してしまう。

人を褒めるということは、怒ることよりも遙かに難しいことだし、誰にでも出来るものではない。周囲の人を巻き込んで「文化」として定着させるには、もの凄い手間と時間がかかりそうだ。もし「人を褒めるのが当然」という組織に属しているのなら、それは立派な一つの財産と言えるような気がする。



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