インパール作戦に開発プロジェクト失敗の源流を見る

終戦の日と言うことで第2次世界大戦に関連した記録映画を見ていたら、インパール作戦が出てきた。歴史の教科書で名前を聞いた程度しか記憶に残っていなかったのだけど、番組の中で紹介された旧日本軍の無茶苦茶な作戦や戦い方にすっかり驚いてしまった。軍隊だから仕方ないとは言え、現場の意見を無視した上層部での意志決定や、作戦に反対する者を切り捨てていくやり方を見ると、作戦決定時点でその結末は運命づけられていたようにも思える。勝つための戦いではなく、敗れるための戦いにしか見えないのだけど、そのような視点でコメント出来るのも私が戦争を知らない世代の人間だからなのだろう。

歴史を知る上で大変勉強にはなったものの、個人的には、ソフトウェア開発プロジェクトにありがちな失敗パターンとダブって見えて仕方がなかった。デスマーチと揶揄されるように開発現場では失敗プロジェクトや、それに準ずる結果のプロジェクトが珍しくない。能力の有るリーダが合理的な戦術で挑めば失敗の確率は幾らでも下げられるはずなのに、開発の現場ではなぜか無謀な計画が堂々と認められ、失敗に向かって一直線という事例が少なくない。例えば、こんな事例は、開発プロジェクトでも良くある光景ではないだろうか?

  • 杜撰なプロジェクト計画

しかし、作戦計画は極めて杜撰であった。川幅約600mのチンドウィン川を渡河し、その上で標高2000m級の山々の連なる、急峻なアラカン山系のジャングル内を長距離進撃しなければならないにもかかわらず、補給が全く軽視されていることなど、作戦開始前からその実施にあたっての問題点が数多く指摘されていた。

インパール作戦 - Wikipedia
  • 反対意見を切り捨てる独裁的な体制

(前略)インパール作戦実施を強硬に反対した総参謀副長稲田正純少将が1943年10月15日に更迭され、第15軍内部でも作戦に反対した参謀長小畑信良少将は、就任後僅か1ヵ月半で牟田口自身によって直接罷免された。こうして作戦に反対する者が排除される様を目の当たりにする中で、反対者は次第に口を閉ざしていくことになった。

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  • 脱落する兵士たち

(前略)前線では補給を断たれて飢える兵が続出、極度の飢えから駄馬や牽牛にまで手をつけるに至るも、死者・餓死者が大量に発生する事態に陥った。また、飢えや戦傷で衰弱した日本兵は、マラリアに感染する者が続出し、作戦続行が困難となった。

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  • 自らの失敗を認めぬリーダ

二人は4月の攻勢失敗の時点で作戦の帰趨を悟っており、作戦中止は不可避であると考えていた。しかし、それを言い出した方が責任を負わなければならなくなるのではないかと恐れ、互いに作戦中止を言い出せずに会談は終了した。

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  • 現場を知らぬ管理者

しかし、ある中隊長の軍刀を抜くと真っ赤に錆びていた。彼は中隊長を叱責し、その場にいた全将校の軍刀の検査を行ったところ、ほぼ全員の軍刀が錆びている事が判明した。激怒した彼は、部隊長に今すぐ部下に軍刀の錆びを落とさせるよう命じた。 しかし、誰一人として軍刀を磨き錆を落とす将校はいなかったと言う。連日の豪雨と泥に浸かっている戦場では、軍刀を維持する方法は無いと分かりきっていたからである。

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  • 失敗の責任は曖昧

しかし、その後終戦に至るまで、この作戦の失敗の責任が明らかにされることはなかった。

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究極の失敗事例として、こんな作戦が行われたと事実を知っておくのは大切なことではないかと思う。しかも、似たようなことは現代でも脈々と行われているのだ。時代が違う、舞台が違う、登場人物も違う。しかし、失敗プロジェクトで行われていることは、本質的にインパール作戦と同じレベルかも知れない。

補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、歴史的敗北を喫し、日本陸軍瓦解の発端となった。 無謀な作戦の代名詞として、しばしば引用される。

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