退屈な時間が失われる時

携帯電話が暇つぶしに欠かせない存在になったのはいつの頃からだろうか。昔の携帯電話はインターネットに接続する機能が無かったから、本来の目的である電話以外に使い道が無く、持ち歩いていても邪魔なことが多かった。今から考えてみれば本当に単機能な存在で、牧歌的な時代だったと言えるだろう。

しかし、今ではパソコンの如く高機能化した携帯の端末を使って、いつでも何処でもネットに接続出来るし、必要なソフトをインストールしてゲームを楽しんだり本を読むことも出来てしまう。外出先にて手持ちの本を読み終えてしまい、かと言って近所に本屋も見当たらない時に、時間をつぶす上手い方法が見つからずぼんやりと物思いにふけるしかなかった時代は、もう過去のものとなってしまったようだ。

いつでも何処でも、ネットを通じて無限の情報にアクセス出来るようになると、何かを考える前に行動してしまうし、そのような行為しか出来ないようになってしまう。たまに携帯を何処かに置き忘れて手元に無い時があるけれど、その時に感じる漠然とした不安感や孤立感というものは、以前ならあり得なかったような類の気持ちではないかと思う。

沢木耕太郎のエッセイに、ある施設について書かれたこんな一節がある。(「退屈の効用」より引用)

その「村」で特徴的なことはテレビが存在しないことであった。その村の長がテレビは敵だという見解を持っていたからだ。
「テレビは強制的に貴重な時間を奪う。貴重な、というのは、その時間にすばらしいことができるのに、というのではない。退屈で不安な時を奪うからこそ、テレビは敵なのだ。退屈で不安だから、人は何かを考え、作ろうとする」
ストイックすぎるといえないこともないが、退屈が何かを生み出すという彼の考え方には説得力がある。

確かに少々ストイックな考え方なので多くの人に受け入れられるとは思えないけれど、個人的には、その気持ちが分かるような気がする。外から来た情報に対してアレコレとコメントを付けて評価することは簡単とは言え、自分の頭で物事の道理を考えてそれなりのアウトプットを生み出すのは容易なことではない。そんな成果を生み出すための工夫の一つが、退屈な時間の確保というものなのかも知れない。

かつて暇つぶしの代名詞と言えばテレビだったけれど、今では携帯電話やパソコンがその座に近づきつつある(既に入れ替わったか)。情報化社会を生きる上で各種の情報端末を捨てるわけには行かないけれど、たまにはそのスイッチを切って外部からの情報を遮断し、自分の頭を使って物事を考える時間も必要ではないかと思う。

バーボン・ストリート (新潮文庫)

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